プロフィール

はじめまして

 

幸せを贈るカウンセリングルームliveへようこそ

心理カウンセラーの 原田幸知(サチ)と申します。

 

 

アダルトチルドレン(AC)、愛着障害、トラウマ、職場の人間関係の悩み、夫婦関係、子育ての苦しみを抱えているお母さん、親の事で悩みを抱えている方に向けカウンセリングを提供しています。

 

私は幼少の頃より生きづらさを感じていました。それが自分の中でどういう表現をしていいのか解らず自分の殻に閉じこもっているような子供でした。

大人になってからも表面は明るくしていても、心の中ではずっと一人で孤独感を抱えていました。

子育ての中での失敗経験を通して親の影響が強かったことに気が付きます。

両親のようにはなりたくないともがいた日々。

そして、心理学を学んだことで、今までの孤独感、不安感で押しつぶされそうになっていた生きずらさに変化がありました。気持ちがふっと軽くなるのが解りました。そして、否定ばかりしていた自分をほめてあげれるようになっています。  

人は何歳からでも変われるんだという事に気が付き、私と同じように長い間、親の事で苦しんだ方やいま悩みを抱えている方、私は長くかかってしまいましたが、あなたはそんなに時間をかける必要はないんです。

アダルトチルドレン(AC)克服カウンセリングを受けて少しでも楽になるお手伝いが出来たらと思っています。

               

 

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孤独感を抱きながらもいい子になっていた幼少時代

私が保育園時代に事業を起こした父は、それは忙しく働いていました。

仕事から父が帰ってくると嬉しくてよくまとわりついていたものです。母は足が悪く歩くことに制限がありました。 

東京から引っ越しをしてすぐに、幼稚園に行くことになった私は

母の「あのお兄ちゃんについて行きなさい」という言葉にビックリしつつも従いました。 

初めての場所、初めて見るお兄ちゃん、心細かったです。歩きながら、走りながらついて行ってましたが見失いました。

どうしようと思いつつも、来た道を家に帰ってしまいました。

母のびっくりした顔、「帰ってきたの!?」

責められているように聞こえました。結局幼稚園の先生が自転車で迎えに来てくれて登園できましたが、それから母に責められないように、一年間毎日休まず登園しました。

怒られないようにいい子でいたのです。

 

 

  

 ある日父の運転している車が事故を起こしました。私も同乗していました。

県外だったので父と電車を乗り継ぎやっと家につき、真っ暗な家の中で母が心配そうに待っていました。そして母から出た言葉。。「私がひとりになったら、どうしようかと思った!」 

私は、家に帰った安堵感で泣いて母親に抱いてもらい「怖かったね」と言ってもらいたかったのに母は自分の事だけでした。。 

母は父の方にばかり気がいって、子供の所には来ませんでした。泣きたい気持ちを我慢するような

よく大人に気を使う子供でした。

我が家には近所の人たちが集い、いつも賑やかでした。近所のおばさんたちの楽しそうな笑い声。 不快でした。

その裏で、近所に同級生がおらず友達のいない私はいつもポツンとしていました

テレビだけが私の寂しさをまぎらわしてくれていました。

近所では物静かな大人しい子。と思われていました。しかし私はいつも孤独感を抱えて生活していたのです。

大人になりたくなかった私、信じれない大人

転機を迎えたのは小学5年頃。父の会社が倒産しました。

あれだけ賑やかだった家はもぬけの殻のように静まり返ってしまいました。

あそこの家は倒産したらしいから、お金を借りにくる。そんな噂は小さい田舎町のこと。すぐに広まりました。

 

私は子供心に人の裏の感情を初めて見て「今まで仲良くしてたと思ったのに、嘘だったんだ」

「大人なんて嘘ばっかり。誰も信じられない」と更に孤独感にさいなまれました

人間不信になった出来事でした。 

  

借金取りが家に来、電話が鳴り、その対応を私がしていました。

「お父さんは逃げたんか!」「どこにおるんな!」大人の男性が、小学生の女子にも容赦ない言葉でした。 

 

 

平静を装っていましたが幼な心が傷つきました。 

 

 

私が近所を通ると外にいた大人はヒソヒソ話しを始め、逃げるように家の中へ入っていきました。

少しづつ受け入れがたい状況を生活の中で感じ、 

「私が外に出たから嫌なことを見るんだ。外になるべく出ないようにしよう」と考え始め、それと同時に次第にあまり喋らなくなっていきました。

お酒を飲むと父から暴力があった 

父はお酒を飲むと気が荒くなり暴力を振るいました。家に近所の竹林で取ってきた若竹を家に置いており、それで一度叩かれたことがありました。

何が理由だったかその時もわかりませんでしたが、父が逆上しその若竹に手がいった瞬間、私ははだしで外へ逃げていました。追いかけまわす父の顔、若竹を何度も私めがけて揺り下ろす父の顔、あたった時の、「そーれ!あたった!!」といった父の笑い顔、全部覚えています。

叩かれたところはみみずばれ。あまりの痛さに泣いてしまいました。

次の日の学校で制服が背中に当たると激痛がありましたが、我慢していました。いつもと違う様子に、担任の先生から「どうしたの?」と聞かれ、一瞬言い逃れをしようと頭を巡らせましたが、背中にできた傷だったので転んだとも言えず正直に「父にたたかれた」というと傷を確認していました。 

家に帰るとそのことで担任から連絡がはいっていたようで、母がばつの悪い顔をしており「先生に言ったの?」と問われました。責められたように聞こえました。

次の日にはその若竹は処分されていました。

いまだに叩かれた理由もわかりません。

「いう事を聞かない」そんなところだったと思います。気分屋の父でした。


家にいるときはお酒ばかり飲んでいるので、いつ機嫌が悪くなり暴力を振るわれるか、

父とテレビを観ている時でもビクビク顔色をうかがっていました。


外に働きに行けばいいのに。子供心にも不思議でなりませんでした。 


なぜ一日中家にいて、お金もないのにツケでお酒を買いに行かされ、朝から晩まで飲んでいるのか

嫌な日々でした。

私には母との記憶がほとんどありません。

何をしていたのかほとんど家にいなかったと思います。

母はお金の心配と就職活動をしない父をなじり、しょっちゅうケンカをしていました。

「今日が平和でありますように」と願い、消してしまいたい自分を抱えていた学生時代

耐える日々が続きました。あれから数年がたち父はまた事業をおこしました。

軌道にのるまではと朝から夜遅くまで頑張って働いていました。私も手伝いに行き少しは役に立てたと思います。

しかし、その生活は長くは続きませんでした。借金が増えました。


家では、父の暴力は続いていました。いつまでこんな生活が続くのか嫌気がさしていました。


中学生になるころには取っ組み合いをするようになっていました。柔道技をかけられ心と体の痛みがさらに増していました。

ある日学校から帰ると、妹が父に追い回されていました。妹から出た言葉「お姉ちゃん、助けて」私はすぐに反応し、「やめろ!」と叫んでいました。

のちに母から「妹を私が初めてかばった」と父が言っていたと聞きました。初めてだったかもしれません。

助けて」こうやって人にいえばいいんだなと思った出来事でした。


学生生活では何の楽しみもなく過ごしました。行きたい高校の受験もあきらめ、将来の事も明日の事も何も考えていませんでした

今日が平和でありますように。ただそれだけでした。


友人もおらず学校ではあまり喋らないので孤立、家庭では父と母の小競り合い。父の暴力。母の愚痴。落ち着かない日々

私は感情を抱かないようにしていました

なぜなら自分を消してしまいたい思いを抱く時があったからです。

辛い、悲しい、耐えられない、いなくなりたい、、、、

そんな思いを聞いてくれる人もおらず、自分の殻に閉じこもっていました。

人はなぜ生まれてきたのか・人は一人では生きていけないのか・・・いつも考えていた時代です。

秘めた心のまま、表では普通に振る舞い心の奥底では虚無感に包まれた学生生活を送りました。

電気、ガス、水道 ライフラインを全部止められ、ろうそく、七輪、ご近所の寄付で生活をしていたこともあります。

特に七輪の火おこしは私の担当でした。

心配してくれていたんだと思います。ご近所さんが火が起っとらんよと言いに来てくれました。

すでに人の目を気にしていた私は、恥ずかしさで「見られたくない」感情が強くなってしまいました。

すべてが無の時代でした。

人との距離感がわからなかった社会人時代

20歳になって実家を出ました。妹と父が大ケンカをしている時に、父から外にでてもよいと

許可をくれたのです。弾みだっかもしれませんが、やっと家を出れる!そう思いました。 

ケンカや暴力の家から一刻も早く外に出たかったのです。長年の希望がやっとかないました。

一人暮らしの始まりでした。

先輩が住んでいるアパートにすぐに決まりました。

が、その先輩と大ケンカをすることになります。


 いつも先輩と一緒にいました。職場の行き帰りは一緒、帰ってからも、なにかと理由を付けどちらかの部屋に行って時を過ごしていました。

しかし、3か月も続くとその関係が苦しくなってきたのです。 

今まで一人で孤独だったのが、急に自分の周りに人がいる。距離感をどうとっていいのか解らず窮屈に感じていました。自分の自由がないことにストレスが溜まってしまい一人で悩んでいました。そんな時の出来事です。

私はいつも先輩と帰っていました。その日は他の人と帰る約束をしていました。時間がなくて先輩に言えなかったのもありましたが、先輩の方が私を見つけ、「帰ろ」と言ったのです。

なぜか怒りみたいなざわざわとしたものが込み上げ、今までのストレスが爆発してしまいました。「ほかの人と帰る!」と大きな声で怒鳴っていました。それから当分の間無視されました。

私は一人反省会をし、なぜあんな風に言ってしまったのか考えました。今まで人に怒鳴ることなんてなかったし、今日は他の人と帰るからって一言がなぜでなかったのか・・・・・・

 

そして、一人の時間が少なくストレスが溜まっていたので、精神的に安定していなかったのが原因だったとたどり着きました。今まで人と接する機会が少なかった分、コミュニケーションをとるのが下手なのだろうとも思いました。

 

「心から反省しています。ごめんなさい」とお詫びをし元に戻りました。

それから少しづつ距離を置き付き合いをするようになってからは、いらいらすることもなく良好な関係を続けられました。

しかし、私は一人で寂しさもありながら、またストレスが溜まっていったらどうしよういう思いがありそれ以降近づけませんでした。結局どこでも一人なんだと人との距離感がわからない自分を自覚した出来事でした。

「父と同じことをしている」子育ての中で思い知らされた

結婚した私は3人の子を授かりました。

とってもかわいい天使が一人ずつ増えるにつれ忙しさは増えたものの絵本を読んだり庭で遊んだりしていました。

すでに誰にも見られたくない欲求は定着しており公園など人の多い所には連れていけませんでした

その反動か、子育てに次第にストレスを抱えるようになっていきました。


自分の価値観で子供はこうあるべきと決めてかかってました。


ある日私が子供のそばを通ると、ビクッと体が反応していました。

その姿を見てはっと気が付きました。




私と同じ!父と同じことをしている!



子供の所に行き皆に「もう今日から怒らないから」と謝りました。 

私と同じ怒り絶望感を味合わせてはいけない。

みんなで泣いた日でした。


子供以外に目を向けるため、パートにでました。 

私の関心が分散していたように思います。

それから子供の成長にあわせ、いつでも家に帰れるような職に就きました。

うつ状態になって「アダルトチルドレン(AC)かも」と気づいた私   

17年間介護職として働きその中の10年間は相談業務に就きました。

ある日仕事中に涙が止まらず、私は自分がストレスでいっぱいいっぱいだったことに気が付きます。

自分でも意外な展開でした。

自宅療養中に退職となり、中途半端で終わった職業人生に寂しい思いをしました。




そして、入院中だった母が亡くなりました。




そのころには薄っすらと自分がアダルトチルドレン(AC)ではないのかと思うように

なっていました。

・生真面目

・他人の目が気になる

・自分の感情が鈍磨している

・コミュニケーションの技術が乏しい

等あてはまる項目が10項目以上あったからです。

子供2人を乗せた車で追突事故、助けを求めたが、、、

私が運転している車に子供2人を乗せていました。が、停車している時にノーブレーキで突っ込まれたのです。

子供も私も車ごと吹っ飛び、家に帰った時には、もう動けなくなっていました。

子供の世話を母にお願いしてみようと連絡した所、「大丈夫?」の心配の言葉もなく

「車を頼める人もいないし行けない」と即答でした。

日頃は遠出するのも、近場でランチするのも、買い物に行くのも自由に近所の人の車にのせてもらい、どこでも自由に行く母でした。


父がアルバイトをして生計を立てていた時も、母は父の所にチラシを持って行って「これが欲しいんだけど」と見せていました。(私の目の前で) 

父は「そんなもの(指輪)を買うよりも私にいるものを買ってやりなさい」と言ってくれたのに母は驚いた顔をして「いるものがあるのか」と尋ねてきました。学校でいるものも我慢していた時です。 

あー、やっぱり自分の事だけしか考えていないんだ。心配もしてくれないんだ。

心が落ちていく感じがしました・・・・・

母のようにはなりたくない

母のように、自分の事だけ考えているような親にはなりたくないとずっと思っていました。

そのころの主人は長期出張が多く子供が中学生くらいまで、ほとんど家にいませんでした。

 

だから私は頑張ったんです。子供の参観日、学校の行事、クラブ活動の父兄の集まり、土日の練習、試合、部活の準備、応援、試合、体のメンテナンス、県外の試合等、交代勤務の中やれることは一生懸命取り組みました。

負の世代間連鎖に気づき断ち切る決心をしたのでした。

苦悩の終わり

母が認知症になってからは、私の所に電話がひっきりなしに掛かってくるようになりました。

屋根裏から誰かに見はられている・この間、警察が来てくれて屋根裏から全部見てもらった(そんな事実はない)・電波の調子がおかしい、盗聴されている・・・等何年も同じことを繰り返し言うのです。

病院に入っては、同じ病室の方を対象にしカーテンの隙間から覗かれている。と繰り返す始末。

とうとうその方は病室を移っていかれました。

母を見てくれた精神科の先生が言われるには、お母さんは小さいころから妄想性障害があったのではないか。

という事でしたがそれ以上は母の拒絶により受診はできませんでした。

生きている時にはなぜ私だけおもちゃを買ってくれないのか、なぜ妹にはやさしいのか、

なぜ話しかけたり学校の事も聞いてくれないのか、なぜ今になって頼ってくるのか、、、あんなに苦しんでいたことが

やっと終わった。。。

そう思いました。

生きづらさ、苦悩から解き放たれて楽に人生を送ってほしい

50年間、長かった。ほんとに長かったです。

母との思い出、、、

愚痴と思い込みの悪口と認知症だったときの記憶しかありません。


不安、孤独、あきらめ等経験し特に母親にはわだかまりがありました。

なぜ私の方へ目を向けてくれないのか

こんなに寂しい思いをしているのに。

なぜ母は、自分の事ばかり考えているのか。自分の都合のいいように子供たちを遣うことが、わだかまりとして残っていました。

そしてこれは両親と生活を共にしてきた

私の心の癖

 

もっと早くにカウンセリングを受けるなどして、心の癖を外していたら

もっと人との関りができて友達ができ

社会性が身について自分の意見を言えたり

子供がのびのびと育ったかもしれない

と思うといたたまれないです


今まさにどうしていいのか悩んでいる方、カウンセリングで大きく変わりますよ。

これからの人生楽しめるように共に歩んでみませんか。

私は本格的に心理学を学んだことで、孤独感、不安感を抱えていた生きづらさの答え合わせが出来ました。

また人との距離感がつかめず、人間関係で苦しんでいましたがそれもできるようになったことで、心が軽くもなりました。

そして、カウンセリングを受けたことにより何歳からでも変われるんだという事に気が付き、否定ばかりしていた自分を認めてあげれるようになっています。

私と同じように長い間、親の事で苦しんだ方やいま、悩みを抱えている方、カウンセリングを受けて楽になりませんか。

私は長くかかってしまいましたが、あなたはそんな時間をかける必要はないんです。               

 



アダルトチルドレン(AC)克服には今からでも遅くはありません。何歳からでも変われるんです。


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